Journal

感動していること。

おそらく僕はいちいち物事に感動したり、影響をうけて声が大きくなってしまう少々面倒くさい人間だろうと思う。すでに帰国してあらたなる時差ぼけとの戦いをしているのだけど、感動したことを少し話したい。何に感動したかというと、実は「ワークショップ」そのものに感動してしまったのである。3日間、ぎっちりのスケジュールで寝るとき以外は彼ら、メーカーの人たちまたはデザイナーの仲間としかいないような生活。まるで寮生活ような(したことがないけれど。)雰囲気。いっしょに料理をしたり、絵を描いたり、馬鹿話をしたり。いい加減3日も経つと誰と気があうのか、誰とならいっしょにデザインができるのかまでわかってくる。実際ワークショップの方法やソリューションの導き方が正しかったかは甚だ疑問である。それでも仮に彼らとともに前に進むことがあるのであれば、きわめて有意義な3日間であったとは思う。ワークショップの最後に、それぞれが今回のワークショップがなんだったのかを意見をのべていた。中にはあきらかに不満を口にするひとたちもいた。それはそれでよくわかる。実際フラストレーションがたまる最後のアウトプットだったと思う。定義された問題はそう簡単に答えをだせるようなことはない。それでも共になにか同じような目標、我々がかかえるべき社会性とはなんなのかをおぼろげに見えたというのが皆の総意ではあったと思う。順番に意見を述べていくなか、一人、徹底的に否定的な意見を述べる人がいた。ものすごく危うい空気がながれたように思えた。そのとき不思議なことに僕は自分のあやつる拙い英語でなにか伝えたいと思った。この嫌な空気のままおわらせたくなかった。実際何を言うべきかは立ち上がるまで考えていなかった。ふと口に出た言葉が、僕が去年やった世界を変えるデザイン展の話だ。世界で10%の人間しかデザインを享受していないという話。デザイナーとして誰もがその状況を変えられるわけではないこと。僕らは何とラッキーなことか、その状況を変えることのできる数少ない、しかもその意思をもつ会社と仕事をすることできること。今回のワークショップの最初に人口と都市についてのレクチャーがあったが、まさに混沌とする都市生活者にデザインでなにかを解決する、あるいは文化を作り出すことのできる数少ないチャンスに立ち会っているのだということ。自分でも驚いたのだけれど、考えながらも英語で話すことができるようになっていたのは、3日間英語のシャワーを浴び続けて、英語脳がいつもより活発だったからに違いない。もちろんそれはまったくもって正しい英語であったとは思えないけれど、言葉は伝えるためにあるのであって、時には正確である必要はない。間合いや、ジェスチャーでも十分語れるものがある。とにかく、僕は内側からこみあげる何かを伝えるので必死だった。なぜなら僕はただただ感動していたから。最後に僕はここにいることが本当にうれしいし、素晴らしい皆と共に過ごすことができたことを感謝している・・というと、拍手が起こった。最初はまばらだったけれど、徐々に大きく・・・皆がこの意見には同意であるという拍手である。そのあと、何人かに僕の話についての感想をいってもらった。
メーカーの恐竜といわれている(古株?)人から力強い握手をもらったり、デザイナーから君の意見で少しほっとしたというような話をもらった。まるでジョブズのようだったよと、怪しい冗談も。
そのあと、皆で近くのレストランに行き、帰ってきてホテルでビールを飲んだ。馬鹿話や、自分の国やカルチャーについて大笑いしながら・・。ぜひ我が家、わが国に遊びにきてくれ・・と。僕の家にはゲストルームはないけれど。僕が建築だけではなく家具やデザインを続けている理由のひとつは実は・・不純でもうしわけないけれど、旅行が好きだということがある。単なる旅行ではなくて、どちらかというとそういったカルチャーエクスチェンジや、旅先でしか経験できない感動がすきなのだ。別れはホテルや、駅や、空港でそれぞれがとても感動てきだった。おそらくこの先何年も会うことがないかもしれない彼らとハグをせざる得ないこのワークショップ。笑いあり、怒りがあったこのワークショップにただただ僕は感動して、今回本当に参加してよかったと、この先に仕事になるかどうかおいといて、感動しているのである。