いつ大人になるのか?
先日、内輪での内覧会があり、オーナーがパーティーを開催してくれた。
オープンハウスでは通常、子供お断り、白い手袋、スリッパが定番だが、ここでは、子供たちや犬が走り回り、生まれて間もない子供がかわるがわる大人たちにだっこされている。石屋さんは、当然のごとく3本立ちの胡蝶蘭を手に持ち、家具屋や金物屋さんが子供たちに作った家具を自慢する。そしてソファーでゆっくり話しこむ人がいると思えば、カウンターからはなれずワインをがっつり飲む人もいるし、屋上のソファーで寝てしまうのではないかとおもうくらいにくつろぐ姿もあった。
僕とクライアントは、この家でパーティーをしたときに、人々はどこで何をするのかをよく語り合った。内覧会と普通のパーティーでは微妙に違うとはいえ、まるで今日という日をまっていたかのような空間とのなじみのよさにほくそえんだ。少々手前味噌になるが・・・自慢話はここらへんにしておこう、つまらん。
パーティーで人の動きをみながら、おそらく外国人中心のパーティーであればまた違うのだろうなと思った。他人を紹介する文化があまりない日本では、パーティーはあまり人が交わらない。このような内覧会において、僕がひとりでマドラー役を買ったとしても限界があるから、途中であきらめた。お酒のせいもある。ただ楽しむことにした。せっかくの機会をオーナーにいただいたわけだ。楽しもう。。そこでひとつの楽しみ、いままでにない楽しみ方に気づいてしまった。元スタッフの子供はまだうまれて間もない。新生児である。新生児はかわいい。この事実にきづいてしまったのである。
今日という日の9年前。長女が生まれた。朝、5時ごろ破水した妻をタクシーにのせて病院へ急いだ。13時間の苦闘のすえ、おぎゃーと出てきた娘をみて、うれしさと不安な気持ちがいりじまじった不思議な気持ちだった。僕はついに人の親になったのだという責任の重さ。会社をやめることを決めていたし、世の中は不況街道まっしぐら、今ほど悪くなかったにせよ、これ以上良くはならないという重たい空気感もあった。その複雑な気持ちを抱えたまま、僕は近所のバーにいった。僕が最初につくった仕事、bar orangeである。偶然にも近所の病院だったから、歩きながら、考えながら、そしてもっと考えたくてお酒を頼んだ。おそらく、ミモザ、シャンパンにオレンジシュースをわった飲み物を飲んだ。これはおごってもらったのだと思う。何を話したかは覚えていない。おそらくたわいもない話をしたに違いない。生まれたよ、おめでとう、つかれた・・。
いつ、男たちは大人になるか?という話がある。20歳?いや、結婚?いやいや。生命保険だよという話がおちなのだが、案外間違っていない。仮に命を失っても守るものを持つという責任こそ、大人という理不尽きわまりない世界なのだろう。それは妻であれ、子供であれ、会社であれ。(もちろん、様々なことで男も、女もおとなになるということは百も承知でそのうちの一つの例だけをとりだしているにすぎないけれど。)
新生児がかわいくみえるようになったこと、それは僕がその理不尽な責任感にようやく身を落ち着けることができ、かつ、ひょとしたら僕の次の新生児はこないのかもしれないという余裕からくるのかもしれない。それはちょっとばかり残念なことだけれど、親が孫がかわいいのはその責任から開放されているからということと少し似ている。落ち着いて、純粋に、新生児をながめられるようになってしまったというべきか。
実はちょっと前に一つ年をとった。そのせいもあって、年齢ということに関してちょっと感傷的になりすぎている可能性大。